旅館の和室で、俺は隣室から漏れてくる
キーボードを叩く微かな音を聞いていた。
担当作家が締切の原稿に向かっているあいだ、
編集アシスタントのmeiが静かに待機している──
そんな状況を知っているだけで、
胸の奥にざわめきが生まれてしまう。
ページをめくるたび、紙が擦れる乾いた音。
その下で、彼女の細い指先がわずかに震えていたのを
俺は廊下越しの隙間から一度だけ見てしまった。
緊張なのか、あるいは物語に触れたときの反応なのか。
どちらでもよかった。
その“揺れ”そのものが、妙に目を離せなかった。
やがて、布団の上に置いていた文庫本が閉じられる音。
その瞬間に空気が変わる。
meiはほんの少し息を吸い、
畳の上にかかとをそっと落として立ち上がった。
その動きには、「少しだけ息抜きしますね」
という静かな合意めいた気配があった。
浴室へ向かう扉が開き、
中からふわりと湿った空気が流れ出す。
俺はその気配の変化を、
まるで隠れて見守るように受け取った。
そして──
シャワーの音が、はじまった。
最初の水が床に当たる軽い音。
それが徐々にやわらかくなり、
お湯へと切り替わった瞬間、
想像の中の景色がいっきにはっきりしていく。
湯気が立ちのぼり、
meiの肩に細かい雫が散る。
濡れた前髪が頬にはりつき、
彼女はそれを指でそっと払う。
その指先の動きがあまりに自然で、
あまりに艶やかだった。
浴びたお湯が背中をたどって落ちていくと、
彼女はわずかに肩をすくめる。
温度に反応した微細な震え。
その一瞬を想像するだけで、
胸が熱を帯びていく。
──そして、ふと気づくように
彼女が鏡の曇りを指で拭う気配。
誰かが見ているかもしれない。
そんな意識をほんの少しだけ受け入れるように、
口元がゆるむその姿を、
俺は想像の中で見つめていた。
作家の原稿は隣室で進んでいる。
でも、湯気の向こうでmeiが見せる“解放”は、
きっと誰よりも彼女自身が望んだ時間だ。
その気配を感じるたび、
俺の胸の奥も静かに熱くなる。
シャワーの音が細くなり、
やがて止まった。
静けさが戻った旅館の一室。
けれど、残った余韻だけは、
湯気のようにしばらく消えずに漂っていた。