昼過ぎのビルは、休日のオフィス街のように静まり返っていた。
エレベーター前に貼られた「関係者以外立ち入り禁止」の紙も、風に揺れることはない。
そのビルの中にあるダンススタジオ。今日はどうやら、まだ誰も来ていないらしい。
いや、ひとりだけ。
階段をのぼるその足音に、俺は気づいてしまった。
彼女の名前は知らない。
けれど何度か見かけたことがある。
白いブラウス、チェックのスカート。細い脚。
おそらく大学生だろう。
その日はTシャツにパーカーを羽織り、グレーのスウェットパンツを履いていた。
…でも、今日は違った。制服姿だった。いや、私服なのかもしれないけど、そう見えた。
ふとした瞬間、彼女の存在がビルの外階段の手すり越しに見えた。
ゆっくりと階段をのぼっていく。スマホを片手に、何かを確かめながら。
そのときだった。
スカートの裾が、風にふわりと持ち上がった。
彼女は気づいているのか、いないのか。
スマホを見つめる目線はそのまま、ゆっくりと階段を上がり続けている。
脚が伸び、スカートが揺れ、その奥がほんの一瞬、露わになる。
そしてまた、なにごともなかったように閉じる。
それだけのことだった。
それだけのはずだった。
でも――
どうして、こんなにも目が離せないんだろう。
彼女の名前を、俺は勝手に“yuna”と呼んでいた。
都内の大学に通う22歳。
ダンスサークルに所属していて、仲間とレンタルルームで練習しているらしい。
……全部、俺の妄想だ。
けれど、そう思わずにはいられないほど、彼女の存在には物語があった。
誰もいない階段。無防備にスカートを揺らして歩く彼女。
その姿を、偶然に見てしまっただけ。
なのに、脳裏には鮮明に焼き付いていた。
足取りは軽く、少しリズムがあるようにも見える。
ダンサーの歩き方だ――なんて、そんな知識があるわけじゃないのに、そう思ってしまった。
yunaは途中で立ち止まった。
階段の踊り場で、スマホを片手にふと足を止め、空を見上げたような仕草を見せる。
スカートの裾が、また軽く揺れた。
そして今度は、明確に“見えていた”。
白。
彼女の脚の間で静かに佇むそれは、風や動きのせいではなく、
彼女自身が、そうなることをわかっていたかのような角度だった。
たった一段、階段の高低差が生む視線の魔法。
立ち止まる彼女の太ももに、階下からの視線がそっと触れる。
彼女は気づいているのか?
いや、やはり気づいていないのか?
その無防備さが、想像をかき乱す。
俺は息を殺しながら、その場から動けずにいた。
声をかける理由もなければ、名乗れる関係でもない。
でも、なぜだろう。
この一瞬を“見届けなければならない”ような、そんな衝動に駆られていた。
彼女のスマホの画面がスリープに切り替わり、反射した太陽の光が
一瞬、彼女の顔を照らす。
マスク越しでも、彼女の目は穏やかで、遠くを見つめていた。
階段の途中で立ち止まるその姿は、まるで、
この瞬間だけ世界から切り取られた静止画のようだった。
数秒後、彼女はまた階段を上りはじめた。
リズムよく、軽やかに。
そして、階段の踊り場の壁の向こうへと、その姿は消えた。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
胸の奥に残る余韻だけが、静かに揺れていた。
あのパンチラを見たからじゃない。
無防備なまま、誰にも見せていないはずの姿を、
偶然にも覗いてしまったことへの罪悪感と、
それでも目をそらせなかった自分への小さな肯定。
そんな矛盾と、かすかな温度が、いまも胸の内で残響している。
彼女が屋上でダンスを始めたのかどうか、俺は知らない。
でもきっと、あの風の中で、彼女はまた誰にも見せない表情をしていたんじゃないか。
脚を伸ばし、呼吸を整え、音もない空間で、
ただひとり、自由になるために、身体を動かしていたのかもしれない。
……全部、俺の妄想だけど。
でも、それでもいい。
その妄想が、彼女の“秘密の一瞬”を永遠にしてくれる気がしたから。