なんとなく目に留まった女性がいた。
黒のワンピースを着た、少し背伸びしたようなその装いが、かえって彼女のあどけなさを際立たせていた。
——もちろん、話しかけることなんてできない。
名前も、声も、何も知らない。
ただ一度、学会の会場で、すれ違いざまに目が合っただけ。
それだけなのに、彼女の姿が頭から離れない。
その日の夜、
彼女が泊まっているホテルのロビーをたまたま通りかかって、すぐに気づいた。
あの黒いワンピース。あの髪型。あのうつむき加減。
間違いない。あれは、昼間の彼女だった。
彼女はスマホを操作しながら、ゆっくりとエレベーターに乗り込んでいった。
その姿が扉の向こうに消えていくまで、俺はただ呆然と見送るしかなかった。
——いま、彼女は、あの部屋にいる。
——たったひとりで。
——そして、俺は何も知らない。けれど想像はできる。
静かな部屋。白いベッド。
彼女はきっと、学会を終えた安堵と疲れに包まれて、スマホを見ながらゴロゴロしているのだろう。
誰にも見られていないと思って、無防備に脚を崩して。
スカートの奥が、ちらりと見えてしまっても、気づきもしないか、気づいていても気にしないか。
そのまま、ゆるやかに、だらしなく過ごしている。
そんな姿を、こっそり覗いてしまったような——
そんな、罪悪感にも似た甘い妄想が、静かに俺の中に広がっていく。
* * *
emiは、ベッドに寝転びながらスマホをいじっていた。
スクロールする指は、流れてくる投稿を追っているようで、実際には何も頭に入っていなかった。
「あー……つかれた……」
小さくつぶやきながら、スカートの裾を気にせず脚を崩す。
体を横にひねって枕を抱き込むようにすると、ワンピースの生地がゆるく波打って、太ももが露わになる。
学会での発表。慣れない環境。知らない人たちの視線。
笑顔でやり過ごしたけれど、やっぱり緊張していた。
ようやくすべてが終わって、こうして誰にも見られない部屋で、心と身体がほどけていく。
気づけば、彼のことを思い出していた。
あの学会の会場で、一瞬目が合った、あの人。
黒いジャケットを着て、真剣な顔で何かを見つめていた。
名前もわからない。でも、あの視線だけは、妙に胸の奥に残っていた。
(……なんで、あんなふうに覚えてるんだろ)
emiはスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
静かな部屋に、微かなエアコンの音だけが流れている。
スカートの中の太ももに、自分の手のひらが自然と滑り込む。
まるで夢を見るように。
誰かに触れてもらっているような、やさしい妄想。
——もし、あの人が、いまここにいたら。
——この姿を見て、どう思うんだろう。
そんなことを考えると、心臓が少しだけ速くなった。
でも、それ以上はしない。
まだ服は脱がない。
まだ、これは“想像”の範囲内。
手を引っ込めて、またスマホを手に取る。
何事もなかったように、画面を見つめる。
けれど、誰にも見せない“ひとりの時間”は、
確かに彼女の中で、静かに色づいていた。
* * *
——あのとき、声をかけていたら、何か変わっていたんだろうか。
そんなわけはない。
それでも、もしもが積み重なって、
俺の中ではひとつの物語になっていた。
彼女はきっと、俺なんか知らない。
でも、知らないままだからこそ、こんなふうに想像できる。
“もしも”に、淫らな期待を混ぜながら。
いつか、またあの目に出会える日が来たら——
今度こそ、あと一歩だけ、近づいてみたいと思った。