学会の帰り、東京のホテル。
emiはベッドの上に寝転び、スマホの画面を指先でゆっくりとなぞっていた。
けれど、本当は何も見ていなかった。
タイムラインの文字は流れていくけれど、彼女の目は、もっと別の場所を見つめていた。
——あの人の、目線。
学会の会場で、偶然目が合ったあの男性。
きちんとスーツを着て、背筋を伸ばしていた。
話したわけでもない。ただほんの数秒、目が合っただけ。
なのに、その視線の温度だけは、なぜかずっと胸に残っている。
(ちゃんと、見てくれてたのかな……)
自分の発表中、後方の席に座っていたあの人。
気のせいかもしれない。でも、何度か視線を感じた。
思い過ごしだったとしても、それでいい。
その“勘違い”が、今夜の彼女をかたち作っていた。
emiは、スマホを胸の上に置いて目を閉じた。
ホテルの部屋は静かで、空調の音だけがかすかに響いている。
学会が終わって、ようやくすべてから解放された。
でも、その解放の中に、どうしようもない“ざわめき”が残っていた。
スカートの上から、そっと手をすべらせる。
何をするわけでもない。
ただ、指先が自分の体温を確かめるように触れる。
(誰も見てないのに……)
そう思いながら、どこかで「見られてるかも」と想像してしまう。
スマホの画面の向こうに、あの人がいたら。
この姿を、もし見ていたら。
どんな顔をするだろう。
どんなことを、考えるだろう。
emiの呼吸が、少しだけ深くなる。
黒いワンピースの上から触れる自分の太もも。
スカート越しに感じる、微かな温度と鼓動。
——触れるだけで、こんなにも感じてしまうなんて。
「変だな、私……」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
誰にも聞こえない。自分だけに聞こえる声。
その声に導かれるように、指先はゆっくりと動く。
スカートの上から、太ももの内側へ。
服の上から、わずかに押し当てるだけ。
でもその“わずか”が、今の彼女にはちょうどよかった。
画面は、もう見ていない。
でも、そこにあの人がいるような気がしてならない。
「……見ててくれた?」
問いかけたその声も、どこか熱を帯びていた。
emiは目を閉じたまま、身をよじるようにして体を沈める。
下着越しに感じる指先の輪郭。
自分が、自分の手で目覚めていくのがわかる。
服の上から触れるという“距離”が、かえって彼女を大胆にさせた。
音は立てない。
でも、体は確実に震えていた。
まるで、あの視線を思い出すたびに、奥の奥から熱が立ちのぼるように。
emiの唇が、声にならない吐息をもらす。
目を開けてしまったら、この妄想は終わってしまう。
だから、目を閉じたまま、ただ静かに揺れていた。
(ねえ……あなたも、同じ夜を過ごしてるの?)
その問いの先に、答えがあるわけじゃない。
でも、問いかけることで、妄想は確かに“現実に似ていた”。
ふと、emiは手を止めた。
熱を帯びたままの身体。
鼓動がまだ静まりきらない胸元。
でも、それでよかった。
それ以上、求めすぎると、なにかが壊れてしまいそうで。
スマホを手に取り、画面をもう一度見つめる。
さっきの投稿のタグには、彼の名前があった。
このままDMを送ってしまおうか。
あるいは、いいねをつけてしまおうか。
——いや、やめておこう。
この夜は、この距離のままでいい。
自分の身体の奥に残った熱だけが、
今日という一日が“確かにあった”という証だった。
そしてまた明日、
emiは“なにごともなかった顔”で、
朝のホテルを出ていくのだろう。
そのすべてが、誰にも知られないまま——
でも、もしも。
本当に、見られていたのだとしたら。
きっと、その視線は、彼女を“肯定”してくれるものだったはずだ。
*
emiは、ワンピースの裾をそっと整え、
スマホを伏せて、深くひとつ息をついた。
——誰にも見せないはずの姿を、
誰かに見られたいと思ってしまう夜が、
確かに、そこにあった。