[emi 妄想#003] あの視線を思い出して、何も着ていないまま

学会を終えた夜、東京のホテルの部屋には、静けさだけが満ちていた。
emiはカーテンを少しだけ開けたまま、ベッドの端に腰をおろす。
ガラス越しに見える夜景は、ほんのり滲んでいた。
さっきまで着ていた黒のワンピースの袖を、ゆっくりとほどく。

胸元から肌を抜けていく冷たい空気に、彼女の背筋がほんの少し震えた。

(どうして…あの視線、まだ残ってるんだろ)

それは、たった一瞬の出来事だった。
学会会場のざわめきの中、目が合ったあの人。
彼の視線はまっすぐで、でもどこか優しくて。
その熱が、まるで指先の奥まで伝わってきたように感じた。

彼の名前も、肩書きも、どこの大学かも知らない。
知っているのは、ただ“あの目”だけ。

その目が、いまの自分を見ていたら——
そんな想像が、emiの呼吸をゆっくりと熱くしていく。

ワンピースを脱ぎ、下着を外し、何も着ていない身体がシーツに触れる。
まるで「裸になる」ことそのものが、彼の視線に近づくための儀式のようだった。

「……見ないで」

そうつぶやいたのは、彼に向かってなのか、
それとも、自分の妄想に溺れそうな心に対してなのか、わからなかった。

でも、身体は、嘘をつかなかった。

emiは、ベッドの上にゆっくりと横たわる。
誰もいない部屋、誰にも見られていないというはずの場所で、
“誰かに見られているような”錯覚が、肌の奥を刺激する。

(この身体、誰かに見られてる…)

そう思ったとき、彼女の指先は自然に脚の間へ向かっていた。
何も身に着けていない身体は、ちょっとした空気の動きすらも感じ取る。
そして、その敏感な肌に触れる指先の感触は、いつもより鮮明だった。

目を閉じれば、思い出すのは彼の目。
スーツの下のグレーのシャツ。
落ち着いた横顔。
でもなによりも、視線。

自分を見つめていた、あの真っ直ぐな眼差し。

(あのとき……もし近づいてきてくれたら)
(わたしは、声をかけられただろうか)
(それとも、ただ微笑むことしかできなかっただろうか)

妄想のなかの彼が、そっと自分の肩に触れる。
何も言わずに、ただ見ている。
その視線が、emiの全裸の身体をゆっくりと包み込むようだった。

「お願い……見ないで……でも……」

視線に見られる快感。
その矛盾のなかで、emiの奥はしだいに熱を帯びていく。
誰にも触れられていないはずなのに、
まるで、そこに彼の存在があるかのように。

ベッドの上、ゆっくりと腰を揺らしながら、emiは自分の鼓動と呼吸に耳を傾けた。
目を閉じても、彼の目だけが鮮明に浮かぶ。

言葉ではなく、触れることでもなく、
ただ“見てくれている”という妄想が、emiの身体を優しく満たしていく。

指先が奥深くまで沈んでいくたびに、
彼に近づいていくような錯覚に囚われる。

「……来て、くれないかな」

そうつぶやいたとき、胸の奥がふるえた。
そのまま、音のない絶頂が、静かに彼女の中を通り抜けていった。

すべてが終わったあと、emiは天井を見つめたまま、
しばらく身体を動かさなかった。
濡れた指先を、そっと胸元に置く。

冷たいはずの空気が、今は少し心地よかった。

「ばかみたい……」

そう笑った自分の声も、どこかやさしかった。

朝が来れば、emiはまた、なにもなかった顔でホテルを出ていく。
学会の記憶と一緒に、この夜も、そっと引き出しにしまい込んで。
でも、身体だけは、昨夜のことをきっと忘れない。

なにも着ていなかったあの時間。
視線のぬくもりを思い出しながら、
emiは確かに、“女”だった。