学会を終えた夜、東京のホテルの部屋には、静けさだけが満ちていた。
emiはカーテンを少しだけ開けたまま、ベッドの端に腰をおろす。
ガラス越しに見える夜景は、ほんのり滲んでいた。
さっきまで着ていた黒のワンピースの袖を、ゆっくりとほどく。
胸元から肌を抜けていく冷たい空気に、彼女の背筋がほんの少し震えた。
(どうして…あの視線、まだ残ってるんだろ)
それは、たった一瞬の出来事だった。
学会会場のざわめきの中、目が合ったあの人。
彼の視線はまっすぐで、でもどこか優しくて。
その熱が、まるで指先の奥まで伝わってきたように感じた。
彼の名前も、肩書きも、どこの大学かも知らない。
知っているのは、ただ“あの目”だけ。
その目が、いまの自分を見ていたら——
そんな想像が、emiの呼吸をゆっくりと熱くしていく。
ワンピースを脱ぎ、下着を外し、何も着ていない身体がシーツに触れる。
まるで「裸になる」ことそのものが、彼の視線に近づくための儀式のようだった。
「……見ないで」
そうつぶやいたのは、彼に向かってなのか、
それとも、自分の妄想に溺れそうな心に対してなのか、わからなかった。
でも、身体は、嘘をつかなかった。
emiは、ベッドの上にゆっくりと横たわる。
誰もいない部屋、誰にも見られていないというはずの場所で、
“誰かに見られているような”錯覚が、肌の奥を刺激する。
(この身体、誰かに見られてる…)
そう思ったとき、彼女の指先は自然に脚の間へ向かっていた。
何も身に着けていない身体は、ちょっとした空気の動きすらも感じ取る。
そして、その敏感な肌に触れる指先の感触は、いつもより鮮明だった。
目を閉じれば、思い出すのは彼の目。
スーツの下のグレーのシャツ。
落ち着いた横顔。
でもなによりも、視線。
自分を見つめていた、あの真っ直ぐな眼差し。
(あのとき……もし近づいてきてくれたら)
(わたしは、声をかけられただろうか)
(それとも、ただ微笑むことしかできなかっただろうか)
妄想のなかの彼が、そっと自分の肩に触れる。
何も言わずに、ただ見ている。
その視線が、emiの全裸の身体をゆっくりと包み込むようだった。
「お願い……見ないで……でも……」
視線に見られる快感。
その矛盾のなかで、emiの奥はしだいに熱を帯びていく。
誰にも触れられていないはずなのに、
まるで、そこに彼の存在があるかのように。
ベッドの上、ゆっくりと腰を揺らしながら、emiは自分の鼓動と呼吸に耳を傾けた。
目を閉じても、彼の目だけが鮮明に浮かぶ。
言葉ではなく、触れることでもなく、
ただ“見てくれている”という妄想が、emiの身体を優しく満たしていく。
指先が奥深くまで沈んでいくたびに、
彼に近づいていくような錯覚に囚われる。
「……来て、くれないかな」
そうつぶやいたとき、胸の奥がふるえた。
そのまま、音のない絶頂が、静かに彼女の中を通り抜けていった。
すべてが終わったあと、emiは天井を見つめたまま、
しばらく身体を動かさなかった。
濡れた指先を、そっと胸元に置く。
冷たいはずの空気が、今は少し心地よかった。
「ばかみたい……」
そう笑った自分の声も、どこかやさしかった。
*
朝が来れば、emiはまた、なにもなかった顔でホテルを出ていく。
学会の記憶と一緒に、この夜も、そっと引き出しにしまい込んで。
でも、身体だけは、昨夜のことをきっと忘れない。
なにも着ていなかったあの時間。
視線のぬくもりを思い出しながら、
emiは確かに、“女”だった。