「上を向いて」と、風が言った気がした。
住宅街の路地。
桜の木のそばに、小さな階段がある。
今日は登ってみようと思った。
一段目。
足元が濡れている。
朝まで雨が降っていたから。
二段目。
靴の裏に水が滲む。
それでも、止まらない。
三段目で顔を上げた。
満開の桜が広がっていた。
北風が吹く。花びらが揺れる。
ひらり、ひらり。
昔の自分は、雨の日は外に出なかった。
汚れるのが嫌だった。
条件が揃わないと動けなかった。
でも今日は動いた。
雨が止んで、すぐ外に出た。
「散る前に見たい」それだけが理由だった。
理由はそれで充分だった。
階段の途中で立ち止まる。
空を見上げる。
16度の春の空気が、肺に入ってくる。
北風が強い。
でも、頬に当たる感覚が気持ちいい。
風が言う。「ここまで来たね」と。
そうだ。ここまで来た。
雨上がりの路地を、ここまで来た。
完璧な日じゃなくても、来られた。
もう少しだけ、登ろう。
散り際の桜が、先で待っている。