「それでいいんだよ」
風がそう言った気がした。 傘を持って、路地に立っていた。 桜が散っていた。雨が降っていた。 今日という日の、静かな午後だった。
目の前に、小さな階段があった。 石段。古い。濡れていた。
登ってみようと思った。 理由はない。 ただ、足が動いた。
一段目。 雨粒が傘を叩く。 桜の花びらが、肩に落ちる。
二段目。 「こんな日に登らなくていいじゃない」 自分の中の声がした。 でも、足は止まらない。
三段目で立ち止まった。 振り返ると、路面に花びらが光っていた。 散り際の桜が、それでも美しかった。
「矛盾してるね」と思った。 悲しいのに美しい。 終わりなのに前にいる。 寒いのに、春だ。
もう一度、上を向いた。 階段の上に、霞んだ空があった。
一年前の私は、こういう日に泣いた。 矛盾した感情が怖かった。 うまく整理できなくて、急いで帰った。
でも今日は、泣いていない。 矛盾のまま、登っている。
それが、昨日との違いかもしれない。
花びらが風に飛ぶ中、また一段登った。
「散り際が、一番きれいだよ」 風の声がした気がした。
つづき