風が言った。「急がなくていいよ」と。 でも私は、歩き続けた。
桜並木の下の坂道を、一段ずつ登り始めたのは、午後のことだった。 今日は20度。春らしい気温だけど、空は少しずつ曇ってきていた。 明日は雨だと、朝から気になっていた。
花びらが、舞っていた。 踏みしめるたびに、柔らかい感触がある。 「散っていくね」 誰かに言うわけでもなく、ただそう思った。
登りながら、考えていた。 昔の私は、きれいなものを見るたびに、どこか遠いところから眺めていた。 「自分にはまだ早い」 「もう少し準備してから」 そうやって、何度も何度も、見送ってきた。 桜も。チャンスも。この街の光も。
でも今日は、違う気がした。 桜が散る前に。 光がある今日に。 この坂を、この足で、全部登ってしまいたかった。
途中で立ち止まった。 振り返ると、来た道が見えた。 意外と、登ってきていた。 花びらが、後ろからついてくるようにひらひらと舞っていた。
頂上に着いた。 見渡すと、街が淡いピンクに染まっていた。 もう少しで葉桜になる、その手前の景色。 最後の、桜だった。
風が吹いた。 「よく来たね」と、言われた気がした。
前に進む。 それは、完璧な準備ができてからじゃない。 花びらが舞っている、この一瞬に踏み出すことだと、気づいた。