
「登っておいで」
風がそう言った気がした。
ブルーアワーの階段に足をかける。 グレーのコートの裾が揺れる。 一段目。冷たい空気が頬に触れる。
二段目。三段目。 ゆっくり登りながら、考える。
この街に来たばかりの頃。 知らない路地が怖かった。 どこにも居場所がなかった。
四段目。五段目。 足が覚えている。この感触を。
いつからだろう。 この道が「帰り道」になったのは。 この灯りが「おかえり」に見えるようになったのは。
途中で立ち止まる。 振り返ると、街の灯りが滲んでいる。 青い空気の中に、温かいオレンジ。
きれいだな、と思う。
風が吹く。 「好きなんでしょ、この景色」と。
「うん」 素直に答える。
また登り始める。 一段、一段。
頂上に着いた時。 街が一望できた。 ブルーアワーの空の下、無数の灯りが瞬いている。
「ただいま」
誰に言うでもなく、呟いた。
風が優しく髪を撫でる。 「おかえり」と。
居場所は、探すものじゃない。 気づいたら、もうそこにある。 この階段が教えてくれた。