
「準備はいい?」 風がそう言った。
ブルーアワー。 街が静かに青く染まる時間。 私は階段の前に立っていた。
一段目に足をかける。 黒いブーツが、コンクリートを踏む。 冷たい。 でも、確かな感触。
二段目。三段目。 風が吹く。 髪が金色に光る。
「どこへ行くの?」 風が聞く。 「前へ」 即答した。
昔は、この問いに答えられなかった。 どこへ行きたいのか。 何がしたいのか。 誰かの後ろを歩いていれば、安心だった。
でも、あるとき気づいた。 誰かの後ろには、私の景色がないことに。
途中で立ち止まる。 振り返れば、青い街が広がっている。 きれいだ。 でも、もう戻らない。
手をポケットに入れたまま、また登り始める。 一段、また一段。 自分のリズムで。
風がもう一度吹く。 今度は背中を押すように。 「いい答えだったよ」と。
階段の先に何があるか、まだ分からない。 でも、分からないから登るんだ。
最後の一段を踏む。 頂上からの景色。 ブルーアワーの空が、少しだけ明るくなっていた。
風が笑う。 「ほら、前に進んだ人だけが見られる景色だよ」と。
知ってる。 だから私は、振り返らない。