前へ登る階段―振り返らない理由

「どこへ行くの?」 風がそう聞いた。

ブルーアワーの階段に足をかける。 一段目。冷たい空気が頬を刺す。 グレーのニットの上に、黒いコートを纏って。 今日は赤いリップを引いてきた。

二段目、三段目。 風が吹く。髪が揺れる。 でも、足は止めない。

昔の私は、この階段の前で立ち止まっていた。 「登っても、何があるか分からない」 「失敗したら、どうしよう」 そう言って、引き返していた。

五段目。少し息が上がる。 振り返れば、青く沈む街が見える。 街灯がオレンジに灯っている。 あの光の中に、昔の私がいる。 怖がって、立ち止まっていた私。

でも今は、違う。

六段目、七段目。 風が強くなる。コートがはためく。 「辛くない?」と風が聞く。 「辛いよ」と答える。 「でも、止まらない」

頂上が見える。 空はまだ青い。でも、東の端がほんのり白い。 夜が明ける前の、あの色。

最後の一段を登り切る。 風が全身を包む。 街が、足元に広がる。

「なぜ振り返らないの?」 風が聞いた。

「前にしか、行きたい場所がないから」

風が笑った。 「いい答えだ」と。

赤いリップが、青い世界に映える。 それでいい。 自分の色で、前へ進む。

一段ずつ。 確実に。