
「登るの?」 風が聞いた。
夕暮れの階段の前に立つ。 黒いコート。黒いニット。黒いスカート。 今日の私は、迷いの色を一つも持っていない。
一段目。 足を踏み出す。 ヒールの音が、路地に響く。
風が吹いた。 髪が揺れる。 コートの裾が舞う。
でも、足は止まらない。
三段、五段。 登るたびに、景色が変わる。 さっきまでの路地が、少しずつ小さくなる。
昔の私なら、ここで振り返っていた。 「本当にこれでいいの?」と。 誰かに確認して。 誰かに頷いてほしくて。
でも今日は、振り返らない。
途中で立ち止まった。 息を整える。 風が横を通り過ぎる。
「疲れた?」と聞いてくる。 「少しだけ」と答える。 「でも、止まらない」と続ける。
風が黙った。 認めるように。
最後の一段を登り切る。 夕暮れの光が、正面から包み込んだ。
街が見える。 私が歩いてきた道が見える。 全部、無駄じゃなかった。
風が言った。 「いい景色でしょう」と。
うん。 でも、一番いい景色は。 揺らがずにここまで来た、自分自身だ。
明日も、登る。 黒を纏って。迷わずに。