
「準備はいい?」 風がそう言った。
冬の午後。 路地の先に、階段がある。 逆光が、その先を照らしている。
一段目に足をかける。 黒いブーツが、コンクリートを踏む。 確かな音がする。
「前へ」 それだけを決めた。
昔は、階段の前で立ち止まっていた。 上を見上げて、数を数えて。 「多いな」と思って、引き返していた。
でも気づいた。 数えなくていい。 ただ、目の前の一段を登ればいい。
三段目。風が吹く。 コートの裾が翻る。 「怖くない?」と風が聞いた。
怖い。 正直に言えば、怖い。
でも、怖いまま登ることを選んだ。 怖くなくなるのを待っていたら、 一生、この場所から動けない。
五段目。光が近づく。 グレーのタートルネックが、 逆光に縁取られる。
七段目。振り返りたくなった。 でも、振り返らない。 「振り返らない」と決めたから。
最後の一段を登り切る。 光の中に出る。
風が吹いた。 今度は、背中を押すように。
「よく来たね」 風が言った。
息が白い。 頬が冷たい。 でも、胸の奥が温かい。
前へ進むとは、 怖さを消すことじゃない。 怖いまま、足を動かすこと。
今日、それを知った。