
「急がなくていいよ」
風がそう言った。
冬の階段の前に立つ。 黒いコート。 黒いニット。 黒いスカート。 全部黒。
それでいい。 これが今の私だから。
一段目。 踏み出す。
昔の私は、こういう階段を走って登っていた。 遅れてはいけない、と思っていた。 誰かに先を越されることが、怖かった。
二段目。 三段目。
横を向いてみる。 冬の街が見える。 車が一台、静かに停まっている。 植物が、黄色く色づいている。
急いでいたら、気づかなかった景色だ。
四段目で、立ち止まる。
息を整える。 風が吹く。 髪が揺れる。
「どうして止まったの?」と風が聞く。 「景色を見ていた」と答える。 「いいね」と風が笑う。
また、登り始める。 一段、一段。
頂上に着いたとき、振り返った。 登ってきた道が見えた。
遠くない。 でも、確かに上に来た。
私のペースで。 私の速さで。 私の色で。
風が最後に言った。 「それが、いちばん速い登り方だよ」と。