
「焦る必要なんてないよ」 吹き抜ける真っ白な風が、そっと私の頬を撫でていった。
黒いパンプスのつま先が、冷たい石段を確実にとらえる。 夕陽に照らされた住宅街の長い階段は、空へと続くようにどこまでも高く見えた。 ポケットに入れた手の中で、小さく拳を握りしめる。
もう何段、見えない階段を登ってきただろうか。 少しだけ息が上がり、私は途中で立ち止まった。 ゆっくりと振り返り、オレンジ色に染まっていく街を見下ろす。 ずっと遠くまで歩いてきた自分の軌跡が、確かにそこには刻まれていた。 思えば、平坦な道など一つもなかったような気がする。
周りの人たちは、もっと高く、もっと速く登っていく。 そんな背中を見送るたびに、自分だけが世界から取り残されたように感じていた時期もあった。 でも、もう誰かと比べるのはやめたのだ。
「私のペースでいい」 もう一度風と一緒につぶやいて、私は再び前を向いた。
頂上まで、あと少し。 すべてを登り切った先には、どんな新しい景色が待っているのだろうか。 冷たかった風も、今の私には心地よいたのもしいエールに変わっている。 大きく深呼吸をして、私はまた一段、光の差す方へ石の階段を登り始めた。