
「焦らなくていい」
風が言った。
階段の前に立って。
グレーのコートを纏って。
一段目を踏む。
ゆっくり。
昔の私なら、もう走っていた。
二段飛ばし、三段飛ばし。
早く登らないと、と思って。
息が切れても、止まらなかった。
でも今日は違う。
一段ずつ。
足裏で、しっかり踏みしめる。
「遅くない?」
自分の中の声が聞く。
「遅くない」
今の私が答える。
階段の途中で立ち止まる。
後ろを振り返る。
いつの間にか、高いところにいた。
急いでいた頃には気づかなかった景色が、見える。
路地の向こうの空。
冬の、静かな青。
また一段。
また一段。
風が背中を押す。
優しく。
「そのペースが、あなたのペースだよ」
頂上に着く。
息が、乱れていない。
そうか。
急がないほうが、遠くまで行けるのかもしれない。
風が最後に言う。
「やっと、気づいてくれた」
ありがとう。
今日も、一段ずつ。