
「曇りの日こそ、登ってみな」
風がそう言った気がした。
気温12度。 雲が低い。 空の色がグレーに沈んでいる。
晴れてもいない。 だから何かが始まる気もしない。 それでも今日、この階段を登ることにした。
一段目。 ベージュのトレンチの裾がひらめく。 冷たい風が後ろから押してくる。
二段目。三段目。 鼻の先が冷たくなる。 息が、うっすら白い。
この感じ、知っている。 晴れた日には味わえない、曇りの日だけの空気。
昔の私は、晴れた日しか動けなかった。 気持ちが乗った日だけ、前に進めると思っていた。 条件が揃わないと、動けない人だった。
でも違った。
曇りの日も、足は動く。 心が追いついていなくても、体は登れる。
階段の途中で立ち止まる。 振り返ると、街がグレーの空に包まれている。
美しいと思った。 普通の景色が、少し違って見えた。
風が言う。 「晴れた日だけ頑張る人より、曇りの日も歩ける人のほうが、ずっと遠くへ行けるよ」
そうか。
また一段、登る。
頂上に着く。 いつもの、グレーの街。 でも今日の私には、それで十分だった。