
「そろそろ、登ってみる?」 風が言う。 曇り空の下、住宅街の階段の前に立った。
頬がひんやりする。 でも、その冷たさが清々しかった。
一段目。 思い切りがいるのは、最初の一歩だけだ。 二段目。 足が覚えていく。 三段目、四段目……。
「どこへ行くの?」と風が聞く。 「春へ」と答えた。
路地の梅の木が、まだ枯れている。 でも確実に、春は近い。 昨日の雨が、土を潤した。 その土の中で、何かが動き出している。
昔の私は、春を待てなかった。 冬が続くと、もう終わりだと思った。 階段を、途中でやめた。
でも今は知っている。
曇り空は、必ず晴れる。 10度の朝も、午後には光が射す。 階段は、登れば必ず上に出る。
「信じてるね」と風が言う。 「少しだけ」と笑いながら答えた。
頂上に着いた。 風が吹き抜ける。 コートの裾が揺れる。
眼下に、住宅街が広がっていた。 枯れた梅の木が、小さく見えた。
ここから見る景色は、 登らないと見えない。
「えらいね」と風が言う。 「あなたのおかげだよ」と答えた。