春へ向かう階段―赤を引いて、上を向く理由

風が言った。
「今日は寒いよ」と。

わかってる。
空はグレーに沈んでいる。
3月なのに、頬が冷たい。
寒の戻り、というやつだ。
春は、まだそこまで来ていない。

それでも、赤いリップを引いた。
鏡の前で、決めた。
今日は、強く在りたい。
それだけの理由で、十分だった。

階段の下に立った。
見上げると、梅の木が見える。
もう花は散りかけていたけれど、一輪だけ残っていた。
まるで、私を待っているみたいに。

踏み出す。
一段、また一段。

登りながら、考えた。
なぜ、赤を選ぶのだろう。

昔は、目立ちたくなかった。
なじんでいたかった。
グレーの中に、消えていたかった。
誰にも見られたくなかった。

今は違う。
見られたい、じゃない。
自分が、自分を、認めたい。
赤は、そのための鎧だ。
毎朝引くたびに、少しだけ強くなれる気がする。

途中で立ち止まる。
振り返ると、路地が小さく見えた。
ここまで来たんだ、と思った。

また歩き出す。

風が吹いた。
コートの裾が揺れた。
「迷ってる?」
「全然」

頂上に着いた。
空はまだグレー。
でも、どこかに青が滲んでいた。

風が笑う。
「その赤、似合ってるよ」

ありがとう、風。
春が来る前の、最後の寒さを越えた。
また一段、登れた。