
「登ってみて」 風がそう言った。
曇り空の住宅街。 気温は15度。 コートがちょうどいい、そんな午後。 路地の先に、階段があった。
一段目。 足が少し重い。
二段目。 「なんで登るんだろう」そう思う。
三段目。 それでも、足は動く。
昔の私は、階段が嫌いだった。 先が見えないのが、怖かった。 どこへ続くかわからない道は、 立ち止まる理由になっていた。
でも今日は違う。
四段目。 風が吹く。 グレーのトレンチコートの裾が、ふわっと揺れた。
「どこへ行くの?」 「前へ」
即答できた。
五段目。 また一段。 また一段。
頂上に着いた。 特別な景色はなかった。 ただ、曇り空があった。 でも、それでよかった。
登れた、という事実だけでいい。
昔の私に教えてあげたい。 「迷ったまま、登れるよ」と。
風が言う。 「迷いは、捨てなくていい。踏みしめながら登ればいい」と。
そうだ。 完璧な状態で登る必要なんて、ない。 迷いも不安も全部持ったまま、 一段ずつ、前へ進めばいい。