
風が言った。 「今年の桜、見た?」
見た。
住宅街の路地に、満開の桜。 白い花びらが、空を覆うほどに。 気温は14度。 薄曇りの空の下で、花だけが輝いていた。
階段の下に立ったとき、ふと思った。 去年の春、ここを登れなかった。 足がすくんでいた。 一歩が、ひどく重かった。
「どうして登れなかったの?」 風が聞く。 「怖かったから」 そう答えた。
怖かった。 新しい場所へ行くのが。 変わってしまうのが。 去年の自分と、違くなるのが。
でも今年は。 一段目を、踏んだ。
桜が風に揺れた。 花びらが、肩に落ちてきた。
「準備、できてた?」 風が聞く。 「完璧じゃないけど」 「それで十分」
二段目。 三段目。
顔を上げると、桜越しに空が見えた。 薄曇りなのに、不思議と明るかった。
新しい季節が、始まる。 準備なんて、いつもそんなもの。 一段登るたびに、整っていく。
風が最後に言った。 「また来年も、ここを登ろう」 と。
来年の春も。 また、一段ずつ。