
「ゆっくりでいいんだよ」
風が、そう言った気がした。
桜が咲いた。 3月。東京。 気温17度。 コートがちょうどいい、そんな春の昼。
階段の前に立った。 ポケットに手を入れて、 空を見上げた。
柔らかい光。 白い雲。 花の匂い。
一段、登る。 ゆっくり。
昔の私は、いつも走っていた。 早く上まで行かなきゃ、と。 周りと比べて、焦って。 追いつけない気がして。
でも今日は、違う。 一段一段、確かめるように。 急かす声は、もう聞こえない。
途中で立ち止まった。 桜の枝が、階段の脇に伸びていた。 白い花びらが、風に揺れている。
「きれいだな」と思った。 走っていたら、気づかなかった。
「ここまで来たね」 風が言った。
「うん、ここまで来た」
もう一段、登った。
頂上から見た景色は、 特別なものじゃなかった。 住宅街が広がっているだけ。
でも、その普通の景色が、 今日は輝いて見えた。
自分のペースで来た、 この春の階段。