
「登っていこう」と、風が言った。
桜の路地に差し掛かったとき、その言葉が聞こえた気がした。 満開の桜。花びらが、ゆっくりと空から降ってくる。 コートに、スカートに、静かに着地する。
今日の空気は暖かかった。 十五度くらい。コートがちょうどいい。 春が、ちゃんとここにある。
一歩踏み出した。
昔の私は、こういう日が苦手だった。 桜を見ると、なぜか切なくなった。 美しいほど、怖かった。 「また終わってしまう」そう思っていたから。
でも今は、違う。
一段目。 足が地面を感じる。
二段目。 背筋が、少し伸びる。
三段目。 振り返ると、桜の木が遠くなっていた。
高くなった分だけ、景色が変わる。 それだけのことだと、気づいた。 怖くなかった。
風が吹いた。 花びらが横に流れていく。
「見えてきた?」と風が聞いた。
「うん」と答えた。
桜の見頃は、今日が最後かもしれない。 でも、次の季節がある。 また登れる階段がある。
それだけで、十分だと思った。