
「また来年も来られるよ」
昔の自分に、風がそう囁いた気がした。
花びらが舞う路地の奥に、石段が見えた。
曇り空。
気温はもう春の温度なのに、北東の風が少しだけひんやりとする。
トレンチコートの裾をかすめていった。
一段、登る。
見上げると、桜の枝が広がっている。
満開を少し過ぎた花びらが、ゆっくりと落ちてくる。
また一段、登る。
昔の私は「いつでも来られる」と思っていた。
桜は毎年咲く。
だから急がなかった。
後回しにしていた。
でも、今ここで気づく。
この曇り空の下の桜は、今日しか見られない。
明日には嵐が来て、全部散ってしまう。
三段目を登る。
花びらが肩に落ちてきた。
払いのけずに、そのままにした。
「急がなくていいよ」と、風が言った。
「でも、止まらなくていい」
そうか。
急ぐのと、今を味わうのは、別のことだ。
頂上に着いた。
桜が、空いっぱいに広がっていた。
一番美しいのは、散り際だと思った。
完全じゃないから、美しい。
今しかないから、輝いている。
風が最後に言った。
「登ってよかったでしょう」
うん、登ってよかった。